2019-1-24
実家は近々人がいなくなるような気がしていて、そうしたらあの無駄に広い家がすっかりと寂しくなってしまう。
今ですら、10部屋もあって住んでいるのは2人だけなのに。
きっとあと数年とかでだあれもいなくなって、暖かい部屋はなくなってゆく。
そうなる前に、いっそ、図書館とかにしてしまえないかななんて想像する。
私が、あの土地で過ごしていたとき、どこにも図書館がなくて、行き場がなくてスーパーのイートインコーナーで震えていたりした。
図書館があれば、いまそういう子どもたちを助けることができる場所にできたりしないだろうかと。いるかどうかもわからない過去の私。もしかしたら、あの町に一人くらいいるかも知れない。経済も何もすべて無視して、居場所を作りたい。
2019-1-11~12
名古屋へ。
なんとなく、でも確かな意思を持って急遽決めた旅で、それは旅というよりも巡礼に近いものがあるかもしれない。
かつて大好きだった人たちで今もなお大好きな人たちのもとへ。
時間の連続性が感じられない不思議な感覚だ。働いていた昨日までの自分がすっかりと抜け落ちて、数年前のいつかとそのままつながったような、私はずっとこの体のままできたはずなのに。
仄暗いひかりはそのままで、同じように照らす。
「変わった」と言われても、「変わらない」と言われてもどちらもやっぱり不安になる。変わったと言われた場合、「もうあなたは私の興味の対象ではない」という宣告となる場合がある。「変わらない」というのも、相手がもし変わっていたら結局前述の場合と同じことだ。
だから、常に関係性は「私とあなた(複数の場合もある)」で考える必要がある。
そしてそれが変わらずにいられる関係性なんて奇跡のようだと思う。だって別々の場所に住み、別々の場所で働き、別々の友好関係を築いていくのだから。時間が経てば経つほどにそれはどんどんと広がっていく。
私だってまた、自分でも自覚しないうちに数年前の自分とは別の判断軸で物事を選択するようになっているように思う。
それでもなお、「私とあなた」である私達は仲良くいられたらと思う。お互いがそのように願い続けることができたらと思う。
2018-12-27
すべての、私を救ってくれるかもしれなかった人たちから逃げて、安っぽい信仰に縋り、けれどもいつの間にか、それでもあの人より数年も長く生きてしまっている。
もう終わりと決めた年から2年が過ぎて、それでもなお。
あわせ鏡の中の私にそのすべての私に、私の指が触れる。
どのような信仰もやがて不可能となり、きっとファンタージェンにだっていけなくなる。けれども、私は諦めたくなくて、世界に溶けたくていつかの感覚をずっと追い求めている。
どうして、あのときまた私をこの世界に引っ張り戻してしまったのだろう、人の形に戻らずにいられたらよかったのに。
2018-12-7
東京の季節感はよくわからなくて、あついと寒いを行ったり来たりしている。
昨日は寒い、今日は少しあつい。
もう少しでまた歳をひとつ重ねて、生き延びてしまうことになる。
本を出したり、ウェブでのライティングをしてみたり、実家のことに真剣に向き合ってみたり、揺れては動いて、全然うまく生きることができなくて、相変わらずの憂鬱性ではあるけど。
言葉が上滑りしないようにと思っていたら、あんまり話せなくなってしまった。前からそうだけど年々酷くなるような気がしている。
その点についてどのようになりたいのか定まらない、無責任な言葉は言いたくないし、でもどれだけ考えて発しても結局は伝わりきらないし、伝わりきることだってない。
もう少し、折り合いをつけてやっていければいいと思う。
肩がもう少し、軽くなればいい。
2018-12-3
ここ数日急激に寒くなって、何をするにも身体が重くなってしまったような気がする。どこにだって行けるはずなのに、すっかり生きていくことが怖くて仕方がない私は部屋の隅でガタガタと震えている。
別に届いてほしい思いなんてない、伝えたいお話なんてなにもない、口を開くことが億劫だ。口にすれば口にした瞬間に何もかもが嘘になるような気がして、全然日本語が話せなくなってしまった。どうしてこうなってしまったんだろう。
わかり合いたいなんて嘘だ、わかってほしいなんて嘘だ、私が何者で、何をしているかなんて、どんな主義主張をもっているかなんて、そんなことは全部どうでもよくて、そういったどうでもいいことのその奥に、何一つないことに絶望してしまう。
どうやって、何を考えて、なんで生きていけるというのだろう。
「贅沢だよ」という厳しすぎるがゆえに少々的はずれな言葉について考えてみても、まあそうか、とおもったり、そんなことはないだろうにともおもったりする。
私がいなくても、あなたがいなくても、あなた達がいなくっても、全部誤差だ、誤差の中で悲しんだり喜んだり忙しい。
退屈しのぎが人生であるならば、もうちょっと楽になればいいのに
2018-11-14
ああ、寒いな、すごくさむい。11月中旬ってこんなに寒かったっけ、冗談でしょう。
息をついて、吐いて、肺に入れる空気の冷たさに毒を吐く。11月4日に大切な、たった数人の友人の一人の、結婚式があった。
そこでスピーチをする機会を幸福にもいただいてしまったのだけれど、だから、何日間かずっとどんな思い出があったかを考えて思い出して、ひとつひとつ、唇にのぼらせてはそっと吹いてみる。
あんまりにもありすぎて、紙に書き起こして手紙にする。
本番に、でも、紙なんて見たくないなと思って、マイクの前に立つ。
一番近くの椅子では、はにかんだように笑っている人がいる。その顔を見たら考えてきたことなんて全部どうでもよくなってしまって、口を開くたびに涙が溢れそうになった。
どうしてだか、全然わからない。寂しいとか嬉しいとか、そういうのはあるけれど、それで泣く理由が自分でもわからない。
でも、笑い顔が穏やかで、嬉しかった、ほっとした、そして私のことをまぎれもなく友人だと思ってくれていることがわかって、それがきっと一番だ。
こんなときでも独りよがりでどうしようもないなあ、と思う。けれどもずっと不安なのだから仕方がない。
おめでとうと、誰よりも思う。そして私を好いてくれてありがとう。ありがとう。
2018-09-20
雨の日が多い。
本を何冊かローテーションしながら読み進めている。
私が私のために生きようとしたとき、私はどのように生きるのかわからずにいる。そうかといっていま誰かのために生きているような自覚はなくて、限りなく私のためだけに生きているのだと思う。
それでも、確実にしがらみのようなものはあって、それがずっと胸につかえている。例えばそのようなしがらみから解放されたとき、どのように私はあるのだろうか。
なんとなく、海を見に行くのだろうなと思っている。遠くの、ずっと遠くの。でもその先はわからない。その海では私は暮らさない。今ある場所にも戻らない。居続ける事ができない私は、やっぱりどこかへ行ってしまう。囚われないように、何かになってしまわないように。
遠くの草原で、羊たちがあくびをしている。遠くの雪原ではそこにしかない花が咲いた。庭にはコオロギたちが鳴いている。
秒針の音が聞こえる、夜が来る、クジラの夢を見る。