2020-12-07

人間を2分法で分けて行ったとして、<私>というものが明確に規定されるまでに何回分ける必要があるのだろうかと考える。ただちに2つのカテゴリーに分けて考えるということだ。ほとんど意味のあることではない、単なる思考の遊びだ。

というようなことをやっていたら、たまたま読んでいた本(倉橋由美子『毒薬としての文学』)でも似たようなことが書かれていた。こちらは倉橋氏が人間を文学的人間とそうでない人間にカテゴライズすることに興味を持っているという話だ。

この「文学的人間」という表現は読んでわかるように非常に曖昧とした概念で、その概念を代替できる一般的な用語を探っているが、彼女の中でも明確なそれを明示できずにいる。つまりは軟派であるとか、精神的小児であるとかそういった意味合いだ(が、これがその概念をすべて包括しているわけではない)。

 

文学的人間、という言葉から想起されるそれかというと違いそうだけれど、精神的小児であるという事においては私も文学的人間であることは間違いなさそうだ。

 

そして文学は、文学的人間のためにあるという。私を含めて、そういった(明確には定義しない)人間のためだ。だとしたら、今ある文学とはなんて狭いものなのだろうと思う。文学的人間が文学的人間のために文学を提供しているのだとしたら、いずれ私はそれを受け入れられなくなる日が来るのではないかという恐怖がある。

 

いつか私が文学的人間であることを望んでか望まずかやめて、そのときに楽しめる言葉とはなんだろうか。

私は文学と呼ばれるものは好きだし、それによって生かされてきたところもあるけれど、物語を消費するものとして、守るものとして、それでいて反文学的であることができたらと思う。