2022-12-07

日常を翻訳して言葉に落とし込むような作業をしていると、自然とうまく訳すことができなくて言葉に詰まるようなことが幾度となくある。その瞬間はもどかしくはあるものの、楽しいものだと思う。思考を挟まずに出てくる言葉ではなく、いくつかの可能性を浮かべては消し、選び、捨てて、感覚に対する近似を探っていく。

毎年、この時期にここに文章を書いていて、そのたびに私は伝わらない言葉に怯え、嘆き、自分の中から様々なものが失われていってしまうことを恐れている。このことを考えるとき、結論はいつでも同じで、「弛みなく、伝えたいことは伝える努力をしましょう」、という言葉にするまでもない結論になる。ただ、それを言葉にするというのが伝えるということだと思う。十全にそれが伝わらずとも。

私の全ては伝わらない、あなたの全てもまた、私に伝わらない。伝わるところもあれば伝わらないところもまた同じようにある、それだけのことだ。言葉とは、言葉を通したコミュニケーションとは、わかりあうためだけではなく、わかりあえないことを認識し、そしてその先の道をつけるためにある(という側面もあるように思う)。

 

同質的な感覚を持つ集団に所属することはずっとかんたんになった。職場もそうだし、プライベートにおいても結局はある程度考えが近いが人と交友関係が続くことになる。SNSだって、自分が使っていて心地よいものにしたいという意識が働くので、よほど意識しなければ自然、同質性が高くなる。だからそこまでの努力をしなくてもさまざまな感覚は伝わるように思えてしまう。

 

そこを超えて、少し遠くへ行ってみたいと思う。わかりあうためではない。別にわかりあいたくない。境界は、ある。その境界を踏み越える気はない。そこから私は未知の言葉を見つけたいし、新しい意味を見出したい。