2018-12-27

すべての、私を救ってくれるかもしれなかった人たちから逃げて、安っぽい信仰に縋り、けれどもいつの間にか、それでもあの人より数年も長く生きてしまっている。

もう終わりと決めた年から2年が過ぎて、それでもなお。

 

あわせ鏡の中の私にそのすべての私に、私の指が触れる。

どのような信仰もやがて不可能となり、きっとファンタージェンにだっていけなくなる。けれども、私は諦めたくなくて、世界に溶けたくていつかの感覚をずっと追い求めている。

どうして、あのときまた私をこの世界に引っ張り戻してしまったのだろう、人の形に戻らずにいられたらよかったのに。

2018-12-7

東京の季節感はよくわからなくて、あついと寒いを行ったり来たりしている。

昨日は寒い、今日は少しあつい。

もう少しでまた歳をひとつ重ねて、生き延びてしまうことになる。

本を出したり、ウェブでのライティングをしてみたり、実家のことに真剣に向き合ってみたり、揺れては動いて、全然うまく生きることができなくて、相変わらずの憂鬱性ではあるけど。

言葉が上滑りしないようにと思っていたら、あんまり話せなくなってしまった。前からそうだけど年々酷くなるような気がしている。

その点についてどのようになりたいのか定まらない、無責任な言葉は言いたくないし、でもどれだけ考えて発しても結局は伝わりきらないし、伝わりきることだってない。

もう少し、折り合いをつけてやっていければいいと思う。

肩がもう少し、軽くなればいい。

2018-12-3

ここ数日急激に寒くなって、何をするにも身体が重くなってしまったような気がする。どこにだって行けるはずなのに、すっかり生きていくことが怖くて仕方がない私は部屋の隅でガタガタと震えている。

別に届いてほしい思いなんてない、伝えたいお話なんてなにもない、口を開くことが億劫だ。口にすれば口にした瞬間に何もかもが嘘になるような気がして、全然日本語が話せなくなってしまった。どうしてこうなってしまったんだろう。

わかり合いたいなんて嘘だ、わかってほしいなんて嘘だ、私が何者で、何をしているかなんて、どんな主義主張をもっているかなんて、そんなことは全部どうでもよくて、そういったどうでもいいことのその奥に、何一つないことに絶望してしまう。

どうやって、何を考えて、なんで生きていけるというのだろう。

「贅沢だよ」という厳しすぎるがゆえに少々的はずれな言葉について考えてみても、まあそうか、とおもったり、そんなことはないだろうにともおもったりする。

私がいなくても、あなたがいなくても、あなた達がいなくっても、全部誤差だ、誤差の中で悲しんだり喜んだり忙しい。

退屈しのぎが人生であるならば、もうちょっと楽になればいいのに

2018-11-14

ああ、寒いな、すごくさむい。11月中旬ってこんなに寒かったっけ、冗談でしょう。

息をついて、吐いて、肺に入れる空気の冷たさに毒を吐く。11月4日に大切な、たった数人の友人の一人の、結婚式があった。

そこでスピーチをする機会を幸福にもいただいてしまったのだけれど、だから、何日間かずっとどんな思い出があったかを考えて思い出して、ひとつひとつ、唇にのぼらせてはそっと吹いてみる。

あんまりにもありすぎて、紙に書き起こして手紙にする。

本番に、でも、紙なんて見たくないなと思って、マイクの前に立つ。

一番近くの椅子では、はにかんだように笑っている人がいる。その顔を見たら考えてきたことなんて全部どうでもよくなってしまって、口を開くたびに涙が溢れそうになった。

どうしてだか、全然わからない。寂しいとか嬉しいとか、そういうのはあるけれど、それで泣く理由が自分でもわからない。

でも、笑い顔が穏やかで、嬉しかった、ほっとした、そして私のことをまぎれもなく友人だと思ってくれていることがわかって、それがきっと一番だ。

こんなときでも独りよがりでどうしようもないなあ、と思う。けれどもずっと不安なのだから仕方がない。

おめでとうと、誰よりも思う。そして私を好いてくれてありがとう。ありがとう。

2018-09-20

雨の日が多い。

本を何冊かローテーションしながら読み進めている。

私が私のために生きようとしたとき、私はどのように生きるのかわからずにいる。そうかといっていま誰かのために生きているような自覚はなくて、限りなく私のためだけに生きているのだと思う。

それでも、確実にしがらみのようなものはあって、それがずっと胸につかえている。例えばそのようなしがらみから解放されたとき、どのように私はあるのだろうか。

なんとなく、海を見に行くのだろうなと思っている。遠くの、ずっと遠くの。でもその先はわからない。その海では私は暮らさない。今ある場所にも戻らない。居続ける事ができない私は、やっぱりどこかへ行ってしまう。囚われないように、何かになってしまわないように。

 

遠くの草原で、羊たちがあくびをしている。遠くの雪原ではそこにしかない花が咲いた。庭にはコオロギたちが鳴いている。

秒針の音が聞こえる、夜が来る、クジラの夢を見る。

2018-09-09

徐々に秋は近づいてきているような、天気だけれど、相変わらず日焼け止めは必要だし、帽子だってかぶっている。

秋は夜からやってくる。

夏の終わりの、夏の夢を見た。

花の名前を数えて、遠くの国の、絵本の国の姫君たちを眺めてはその世界を夢想した。いくつもの宇宙を見たし、それを見る人達を見ていることも好きだった。

いつだかと違って、霧はでていなくて、陽射しと雨が交互に頭の上に降り注いだ。

いつだかと違って、注文したものはちゃんとサーブされたし、少しずつ、何もかもが違う。私だって違うし、周りだって違うし、それは意識されないものだけれど、意識した瞬間にずっと遠くにいってしまうもののような気がする。

蝉の声がだんだんと遠くなる、あるいはそれはすでにずっと昔だったのかもしれない、わかろうとすることさえできないことばかりの日常で、生きていく。

2018-09-03

お元気でしょうか、と文字を並べてみる。
この言葉は、届くのかもしれないし届かないのかもしれない。届けようと思えば、住所だって知っているし、メールなんかを送ってもそれはやっぱり届くのだろうと思うのです。

お元気でしょうか、だんだん夏が好きなようになってきた、と言っていたけれど、今年の夏も変わらず好きでいられたでしょうか。とても暑くてまいってしまうような日々で、身体の弱いあなたが倒れていないといいのですけれど。

お元気でしょうか、と書くこの言葉はその意味以上にずっと深く届けばいいと、無責任に思っています。

 

夏は永くて、秋はゆっくりで、この秋がどうか秋らしいものであればいいと願っています。そうすればきっと、あなたは元気でいられるのだから。

 

葬送のように、言葉を書くことが増えたように思う。

それならば、送っているのは何なのだろうかと考えるけれど、その実、何も送っていないのかもしれない。なにも失っていないのかもしれない。

失ったふりをすることで楽になろうとしているのかもしれない。

もし、そうなのだとすれば、私は楽になってはいけない。苦しんで苦しんで、救済なんて求めずに苦しむために苦しむことが必要なのだ。