2019-07-11
今月に入ってからずっと体調を崩して、寝込んでいたりした。外はずっと雨で、涼しくて、湿度が高い。道路を行き交う車の音と、登下校をする子どもたちの声だけがよく聞こえた。
そういえば、「ノストラダムスの大予言」のその滅亡の予言のときから20年も経とうとしているのかと思いだした。当時、年齢的に子どもだった私は、明日来るかもしれないその日を指折り待っていた。どこか、それは嘘(というか、来るはずがない)だろうと思いながら過ごしていたけれど、7月が終わって8月になったときには肩透かしを食らったような、ほっとしたようなそんな感覚があったことを覚えている。
恐怖の大王ってなんだったのだろうか。空から降ってくる恐怖の大王。不時着する流星。よくわからない生命体。とてつもない核兵器。想像の及ばない、宇宙の秘密。
それを聞いた当時、「大王」という言葉に引きずられて閻魔大王みたいなものを想像していた気がするけれど。
今も昔も、滅亡したって構わないと思っている。滅亡するのが人類なのか地球にある生命すべてなのかはわからないけれど、それでも。
ゆっくり崩壊していくことに耐えるのは、とても大変だから。
2019-06-17
「なにか楽しいことはないの」
と言われたときに「ないですね」と斜に構えるでもなく、心からそのように言ってしまえることが悲しくて、それでは一体どの状態を楽しいと言えるのかそんなこともわからない。
「何かを書いているときは?」
自傷行為のようなものです、と答える。これは間違いではないけれど、全てでもない。自傷行為だからといって、それが楽しくないわけではない、痛いだけでもない。書けば、だって会えるのだから。書いている間だけ、会える人がいる。幻でも幻想でもなく、確かに、目の前に。私の血によって。
それを楽しいというかわからない、けれども後付の生きる意味を語るとしたら、その瞬間に見つけることができるのだと思う。
2019-05-27
暑い日。3,4日連続で30度を超える陽気が続いて、春の気分でいたから驚いてしまった。慌ててエアコンを付けて、温度管理が難しいことを思い出した。
名古屋にいたときに、手紙のやり取りをしていた人がいた。そのことを帰り道に不意に思い出した。思い出したというのは違うかもしれない、どこかずっと頭の中にはあった、例えばそう、こうやって文章を書いているときとか。
けれども今日はそれがより強く、近くたち現れた。暑さが湿度をともなっていて、名古屋の夜のようだったからかもしれない。五感を使う記憶はいつだって強固なのだから。
その人とは文字でのやり取りしかなかった。会ったこともないし、話したこともない。もしかしたら、会うことが一度くらいあるのかもしれないと思っていたけれど今なお実現はしていない。
いつも言葉はやさしくて、優しい半面、優しさゆえに生きて人と関わることを畏れているようで、その言葉を見るたびに私はどうしてか泣きたくなった。
絵本を描いている、と書いていた。いまでも書いているのだろうか。書いているといいな。書いていてほしいな。
やり取りをしていたその人の当時の年齢に少し近づいて、その人が書いていたことで理解できるようになったこともある、まだ感覚としてわからないこともある。
いつかの夏に短冊に書いていたという願いが叶っていればいい、叶い続けていればいい。
2019-05-07
物語を書くということは自傷行為の一種のようだと思う。何かを書くということは、大体流れている血を文字にして写すようなもので、その傷口がふさがって、忘れてしまわないように、えぐっては文字を引きずり出す。
本当はこんなことをして書く必要なんてないのかもしれない、かもしれない、というよりもないのだと思う。それでも、どこに出すあてのない話でも、私は血を流していたい。血を流すことをやめたら、それはいつかの私への背信行為となってしまうような気がして。
私は、何もできないんだ。絵だってかけない、歌をうたうこともできない、誰かを器用に笑わせることだってできない。それに心血を注ぐことができない。けれども、言葉を記し続けることにはいくらでも血を流そう。それが約束だから。
2019-04-18
ずっと考えていること。
きっと生まれてこないことが最良で、ただそれはもう叶わないから、だからせめて、生きているのならば善きものになりたい。善きものになれないのであれば早々に死んでしまいたい。
綱渡りだ。少し踏み外せば、まっさかさまで終わりは見えない。善きものになりたい。
2019-04-07
今日の早朝に、曾祖母が亡くなった。もう100も近かったのでおそらく一番安らかな死の形で亡くなった。
だから、良かったのだと思う。施設から病院に運ばれていたときは、もう意識が朦朧としていたという。そのとき、曾祖母がどのようなことを思っていたのか、私にはわからない。或いは、なにも思うような余裕なんてなかったのかもしれない。怖かったのだろうか。私にはわからない。そこにはいなかったし、声もかけることだってできなかった。
子供の頃、皆忙しくて、曾祖母だけが遊び相手になってくれていた。そのことだけをずっと覚えている。曾祖母の部屋が好きだった。そのことだけをずっと覚えている。好きな人の死に寄せて、どのように感情を葬送すればいいのか、未だにわからない。
そうとはいえ、大往生だ。そう悪いことではない。
最後に見た記憶が、景色が、優しいものであってほしいと願う。