2016-10-6

地球みたいな空、と夜道を歩きながら思った。意味がわからなくてひとりで笑った。言葉は脈絡もなく頭のなかに降ってきて(湧いてこない、降ってくる、流れ星じゃない、たぶん椿が落ちる感じ)、あとからその意味を考えたりする。

雲の作る斑が、まあるく見える空が、やっぱり地球みたいだった。

秋の風が心地よくて誰よりもゆっくりと歩いた。携帯を触りながら歩く人が私を次々と抜いていった。急がなくてもいいって、いいね。そう思えることが、いいね。

心地が良いからってさ、できるだけそこに長くいてちょっとだけスキップなんかもしちゃって、家々の壁には木々が揺れていた。風が吹いていた。

海が見たいと思った。遠くの、遠くの。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

須賀敦子ユルスナールの靴』)

2016-09-27

「自分の人生が行き詰まってるからって、他人も世界も一緒にすんなよ。巻き添えにはならへんからな」

夕刊紙を読んでいたおっさんには、なんの反応もなかった。

ジャニスが目を開けているのに気づいた。わたしは言った。

「善く生きる、って……」

ジャニスは遮って言った。

「自分で考えろ」

ジャニスは右手で髪をぐしゃぐしゃ掻きながら大きな欠伸をした。茶色い髪の先に鳥の羽がついていた。

「自分で、死にそうになるまで考え続けろ」

柴崎友香『ビリジアン』)

 

2016-09-26

ひと駅分、歩くことにしている。

光が通り過ぎていく道で、手を後ろに組みながら、通り過ぎていく人たちを眺めて、きらきらとひかる街を眺めて歩くことはとても楽しい。

歩く速度で思考する。流れる曲のこと、今朝読んだ文章のこと、少しだけ昔のこと、あるいは未来のこと、見えている景色について、京都を泳ぐミルク色の金魚、遠くのこと。

歩く速度で思考する。その速さでしか物事を考えられないから。不意にこの時間を失わなければ大丈夫だと思うことができた。考えるために歩くということは誰にも理解されないかも知れないけれど(今日だって、凧揚げをしたいと言ったり、価値観のようなものを話したら不思議な顔をされてしまった)、私にはこの時間が必要でその事実だけが必要だった。

 

金木犀がそう言えば香った。

じゃあ、もう、金木犀の香水はおしまい。

2016-08-24

在来線と、新幹線で1時間半ほど。軽井沢がこんなに近いとは知らなかった。何も予定は決めていない。ただ、どこかに行きたくて、まあ、できれば涼しいところがよくて、くらいの浅い思考で行き先を決めた。

駅を出ると深い霧に包まれていた。数m先さえよく見えなかった。雲場池では緑の輪郭がなくなり、色が霧に溶け出していた。遠くに光るランプは橙色だった。

ペンションに着くと雨が降ってきた。雨の音を聞いていると眠くなった。頭痛は、しなかった。パンフレット等を眺めながら次に行く場所を決めた。知らなかったけれど、歩いていける範囲に幾つか有名な場所や施設があったらしい。

高原教会へむかった。中庭がキャンドルの炎でいっぱいだった。地面は暗闇のままで、偽物の星空みたいだった。星と近すぎて、星座をたどることはできなかった。神父さんからランタンをもらって、ひかりを掲げながら中庭を散歩した。ほんのりと右手が暖かかった。

軽井沢の夜は夜で、暗かった。目を閉じれば虫の音だけが聞こえた。枕が合わなくて眠れなかったから、諦めてその音だけを聞いていた。次第に眠気が訪れた。浅い夢とぼんやりとした現実を繰り返していた。霧の中にいるみたいだと思った。それならば、私から流れだした色は何だったのだろう。