2015-07-20

矢も盾もたまらず、外へと飛び出した。外へ出たかった、というよりも内的に引きこもりたかったから。このままここへいたら狂ってしまうというような予感がしたから。朝だって早く起きることができたから、大原のマリアの心臓に行ってもよかった。会期は今日までだもの。けれど、とてもじゃないけれど人形に対面する体力はなかった。たましいを抜かれてしまう。

そういうわけで自転車を遠くまで飛ばして目的地だけ決めて気の向くままに走った。夏の中を息継ぎすることなく泳いでいた。草の香りは背中からついてきた。川沿いでは家族や友人を連れてバーベキュー、草野球。身体を焼いている人たちもたくさんいた。途中の神社では翁の面を顔に貼り付けたような笑顔の老人と話した。成功したら願いが叶うというゲームは成功しなかった。ちょっと難しすぎる。願いも、ゲームも。紫陽花は暗い森のなか。咲いている場所だけ蒼く発光しているようだった。

そのうちに『細雪』の映画で見た場所まで行き着いた。ここまで来るとさすがに人は多くて、自転車を降りて歩くしかない。「氷」の文字がゆらゆらと揺れる。子どもの、大人の、歓声が聞こえる。夏だものね。泣いて、叫んで、叶う願いがあるのならそうするといい。そうしたい。

脈絡もなく、思う。初めにあったのは世界で、言葉ではない。言葉は世界に従属するものであると。初めに世界があって、それを表現するために生まれた。それならば、まだまだたくさんこの世のことを知る必要がある。昨日読んでいた本にもあった。

「いくら運命が動かしがたいものだとしても、すべてをあきらめてしまうなんて愚かです。」

運命というのは言葉遊びの産物で、きっと「運命」も「自由意志」も「必然」も「偶然」もない。あるのはただ、起こってしまった出来事と、不確定な未来だけだ。そして、その不確定なものができるだけいいものであればいいという願い。

顔をあげて、息継ぎをする。夏の空気は水分を含んで身体を循環する。もう一度夏の中を泳ぐために足を動かす。