2019-06-17

「なにか楽しいことはないの」
と言われたときに「ないですね」と斜に構えるでもなく、心からそのように言ってしまえることが悲しくて、それでは一体どの状態を楽しいと言えるのかそんなこともわからない。

「何かを書いているときは?」
自傷行為のようなものです、と答える。これは間違いではないけれど、全てでもない。自傷行為だからといって、それが楽しくないわけではない、痛いだけでもない。書けば、だって会えるのだから。書いている間だけ、会える人がいる。幻でも幻想でもなく、確かに、目の前に。私の血によって。

それを楽しいというかわからない、けれども後付の生きる意味を語るとしたら、その瞬間に見つけることができるのだと思う。

2019-05-27

暑い日。3,4日連続で30度を超える陽気が続いて、春の気分でいたから驚いてしまった。慌ててエアコンを付けて、温度管理が難しいことを思い出した。

 

名古屋にいたときに、手紙のやり取りをしていた人がいた。そのことを帰り道に不意に思い出した。思い出したというのは違うかもしれない、どこかずっと頭の中にはあった、例えばそう、こうやって文章を書いているときとか。

けれども今日はそれがより強く、近くたち現れた。暑さが湿度をともなっていて、名古屋の夜のようだったからかもしれない。五感を使う記憶はいつだって強固なのだから。

 

その人とは文字でのやり取りしかなかった。会ったこともないし、話したこともない。もしかしたら、会うことが一度くらいあるのかもしれないと思っていたけれど今なお実現はしていない。

いつも言葉はやさしくて、優しい半面、優しさゆえに生きて人と関わることを畏れているようで、その言葉を見るたびに私はどうしてか泣きたくなった。

 

絵本を描いている、と書いていた。いまでも書いているのだろうか。書いているといいな。書いていてほしいな。

やり取りをしていたその人の当時の年齢に少し近づいて、その人が書いていたことで理解できるようになったこともある、まだ感覚としてわからないこともある。

 

いつかの夏に短冊に書いていたという願いが叶っていればいい、叶い続けていればいい。

2019-05-07

物語を書くということは自傷行為の一種のようだと思う。何かを書くということは、大体流れている血を文字にして写すようなもので、その傷口がふさがって、忘れてしまわないように、えぐっては文字を引きずり出す。

本当はこんなことをして書く必要なんてないのかもしれない、かもしれない、というよりもないのだと思う。それでも、どこに出すあてのない話でも、私は血を流していたい。血を流すことをやめたら、それはいつかの私への背信行為となってしまうような気がして。

私は、何もできないんだ。絵だってかけない、歌をうたうこともできない、誰かを器用に笑わせることだってできない。それに心血を注ぐことができない。けれども、言葉を記し続けることにはいくらでも血を流そう。それが約束だから。

2019-04-18

ずっと考えていること。

きっと生まれてこないことが最良で、ただそれはもう叶わないから、だからせめて、生きているのならば善きものになりたい。善きものになれないのであれば早々に死んでしまいたい。

 

綱渡りだ。少し踏み外せば、まっさかさまで終わりは見えない。善きものになりたい。

2019-04-07

今日の早朝に、曾祖母が亡くなった。もう100も近かったのでおそらく一番安らかな死の形で亡くなった。

だから、良かったのだと思う。施設から病院に運ばれていたときは、もう意識が朦朧としていたという。そのとき、曾祖母がどのようなことを思っていたのか、私にはわからない。或いは、なにも思うような余裕なんてなかったのかもしれない。怖かったのだろうか。私にはわからない。そこにはいなかったし、声もかけることだってできなかった。

 

子供の頃、皆忙しくて、曾祖母だけが遊び相手になってくれていた。そのことだけをずっと覚えている。曾祖母の部屋が好きだった。そのことだけをずっと覚えている。好きな人の死に寄せて、どのように感情を葬送すればいいのか、未だにわからない。

そうとはいえ、大往生だ。そう悪いことではない。

最後に見た記憶が、景色が、優しいものであってほしいと願う。

2019-03-26

言葉がとても苦しい。言葉をなくして旋律や絵にその全てを預けてしまえればいいのに、と思う時がある。けれども、私はどれでもない、言葉で伝え続けることを選んだ。だから向き合うことが絶対的に必要なのです。

私は、千言を用いて真実を伝える必要はない、万語を操って仔細を伝える必要はない、何もかもを伝えなくていい。

めいっぱいの空白を残して、私だけで完結することのない言葉で、往復書簡のようなやわらかさで、伝えることを諦めずにいよう、そのようにあろう。

千言万語のいちでも、なにかてわたすことができるように。

2019-3-10

最近、雨が多くて、雨が降るたびにひどい頭痛に襲われている。タイヤが水を切る音ばかりが家に響いて、寄せては返す波、というにはいささか荒々しい。

高い場所に行きたくて、家の近所のマンションやビルの屋上にのぼる階段を探す。流石にセキュリティがしっかりしていて、どこにも入れそうにない、無理をすればいけるだろうところもあったけれど、そこまで必死になるものでもない。

結局普通の散歩をしただけで終わり。川を流れる風がやたらと生暖かくて、春の夜のようだった。そうか、春か。

冬がないままに春がきてしまうな、さびしい。