2018-4-21

先週末くらいに灯台に行く予感がして、その予感を成就させるために灯台に行った。神奈川の端の方へ、ディ・トリップ。ここ最近、うまく呼吸ができなくなっていた。この「呼吸」はもちろん比喩のことで、実際の私は、すこぶる健やかに、すーすーすーすーと今この瞬間も必要数の呼吸を繰り返している。

 

海を見ることで変わる何かがあるとか、そういうことは何もない。ただ家と仕事の往復ではいつ見る空もつねにビルが視界に入り込んできていてそれになんだかとても疲れてしまった。また、この作り上げられた社会制度の上でしか役に立たない汎用性のない論理的な思考を放棄したかった。

リセット、ではない。厳密に今生きるこの世界にはリセットなんてない。過去は、思考は、そこに歴然とあって、積み重ねた上で、そこにまた白、ないしは空白を重ねる。

 

海に行く間、私は、何も考えていなかった。何も考えずに、本の字面と、見える景色を時折目で追っていた。そういう記憶があるだけ。

住んでいる場所から離れるごとに、その距離が伸びるほどに指数関数的に刹那的に必要とされている思考から引き剥がされるような感覚になる。2時間半で、日本の端っこに行けるのだ。その瞬間は少なくとも既存の思考は必要ない。

風が強く吹いていた。灯台にさわった。白くて、すべすべとしていた。潮風に晒されていることを思わせない潔白さだった。服がいっときも休むことなくはためいて、すっかり潮の香りが移った。

むかし、ずっと年の離れた友人が「鈍感になれ」と言っていたことを思い出した。その人はイラストレーターで、それこそ感性が必要な世界の人だったから、そう言うことが意外だった。ただ、今となってはより深くその意味が身にしみて、たぶん鈍感にならなければ守れない感性があるのだと思う。

息を吸う。思いっきり風が吹き付けて苦しい。苦しくて、笑う。耳に対して風をあてる角度を変えると、音が変わってゆく。風が、輪郭を浮かび上がらせる。髪を押さえるともうごわごわとしていた。

岬に立つとその先には、海はなくて、それは当然だけれど目に見えるものが海と空だけであることが嬉しかった。そこには社会制度も、文化も、人間が作り上げたものは何一つだってなかった。ここでは鈍感である必要がなくて、本質的に自由だった。海からも風からも離れがたくて、ずっと歩いていたら、いつの間にか陽は落ちはじめて、海に道をつくっていた。どこかの国には月が水面に反射して作る道に名前を与えていたけれど、陽が映し出す道には名前がないのだろうか、まぶしい、目を細めて、その道行きを追う。船がその道を通る。逆光で、影絵のようにくっきりと浮かぶ。

 

物語には、始まりは明確にある、その真ん中も、ある。終わりだけが、明確にない。いつの頃からか勝手にはじめられた物語のその真ん中にまた私達がいる。まだ、ずっと何十年何百年、何千年、もっとその先へ物語は続く。小さな物語を語り継ぎながら。