2019-05-07

物語を書くということは自傷行為の一種のようだと思う。何かを書くということは、大体流れている血を文字にして写すようなもので、その傷口がふさがって、忘れてしまわないように、えぐっては文字を引きずり出す。

本当はこんなことをして書く必要なんてないのかもしれない、かもしれない、というよりもないのだと思う。それでも、どこに出すあてのない話でも、私は血を流していたい。血を流すことをやめたら、それはいつかの私への背信行為となってしまうような気がして。

私は、何もできないんだ。絵だってかけない、歌をうたうこともできない、誰かを器用に笑わせることだってできない。それに心血を注ぐことができない。けれども、言葉を記し続けることにはいくらでも血を流そう。それが約束だから。

2019-04-18

ずっと考えていること。

きっと生まれてこないことが最良で、ただそれはもう叶わないから、だからせめて、生きているのならば善きものになりたい。善きものになれないのであれば早々に死んでしまいたい。

 

綱渡りだ。少し踏み外せば、まっさかさまで終わりは見えない。善きものになりたい。

2019-04-07

今日の早朝に、曾祖母が亡くなった。もう100も近かったのでおそらく一番安らかな死の形で亡くなった。

だから、良かったのだと思う。施設から病院に運ばれていたときは、もう意識が朦朧としていたという。そのとき、曾祖母がどのようなことを思っていたのか、私にはわからない。或いは、なにも思うような余裕なんてなかったのかもしれない。怖かったのだろうか。私にはわからない。そこにはいなかったし、声もかけることだってできなかった。

 

子供の頃、皆忙しくて、曾祖母だけが遊び相手になってくれていた。そのことだけをずっと覚えている。曾祖母の部屋が好きだった。そのことだけをずっと覚えている。好きな人の死に寄せて、どのように感情を葬送すればいいのか、未だにわからない。

そうとはいえ、大往生だ。そう悪いことではない。

最後に見た記憶が、景色が、優しいものであってほしいと願う。

2019-03-26

言葉がとても苦しい。言葉をなくして旋律や絵にその全てを預けてしまえればいいのに、と思う時がある。けれども、私はどれでもない、言葉で伝え続けることを選んだ。だから向き合うことが絶対的に必要なのです。

私は、千言を用いて真実を伝える必要はない、万語を操って仔細を伝える必要はない、何もかもを伝えなくていい。

めいっぱいの空白を残して、私だけで完結することのない言葉で、往復書簡のようなやわらかさで、伝えることを諦めずにいよう、そのようにあろう。

千言万語のいちでも、なにかてわたすことができるように。

2019-3-10

最近、雨が多くて、雨が降るたびにひどい頭痛に襲われている。タイヤが水を切る音ばかりが家に響いて、寄せては返す波、というにはいささか荒々しい。

高い場所に行きたくて、家の近所のマンションやビルの屋上にのぼる階段を探す。流石にセキュリティがしっかりしていて、どこにも入れそうにない、無理をすればいけるだろうところもあったけれど、そこまで必死になるものでもない。

結局普通の散歩をしただけで終わり。川を流れる風がやたらと生暖かくて、春の夜のようだった。そうか、春か。

冬がないままに春がきてしまうな、さびしい。

2019-1-24

実家は近々人がいなくなるような気がしていて、そうしたらあの無駄に広い家がすっかりと寂しくなってしまう。

今ですら、10部屋もあって住んでいるのは2人だけなのに。
きっとあと数年とかでだあれもいなくなって、暖かい部屋はなくなってゆく。

そうなる前に、いっそ、図書館とかにしてしまえないかななんて想像する。
私が、あの土地で過ごしていたとき、どこにも図書館がなくて、行き場がなくてスーパーのイートインコーナーで震えていたりした。

図書館があれば、いまそういう子どもたちを助けることができる場所にできたりしないだろうかと。いるかどうかもわからない過去の私。もしかしたら、あの町に一人くらいいるかも知れない。経済も何もすべて無視して、居場所を作りたい。

2019-1-11~12

名古屋へ。

なんとなく、でも確かな意思を持って急遽決めた旅で、それは旅というよりも巡礼に近いものがあるかもしれない。

かつて大好きだった人たちで今もなお大好きな人たちのもとへ。
時間の連続性が感じられない不思議な感覚だ。働いていた昨日までの自分がすっかりと抜け落ちて、数年前のいつかとそのままつながったような、私はずっとこの体のままできたはずなのに。

仄暗いひかりはそのままで、同じように照らす。

「変わった」と言われても、「変わらない」と言われてもどちらもやっぱり不安になる。変わったと言われた場合、「もうあなたは私の興味の対象ではない」という宣告となる場合がある。「変わらない」というのも、相手がもし変わっていたら結局前述の場合と同じことだ。

だから、常に関係性は「私とあなた(複数の場合もある)」で考える必要がある。
そしてそれが変わらずにいられる関係性なんて奇跡のようだと思う。だって別々の場所に住み、別々の場所で働き、別々の友好関係を築いていくのだから。時間が経てば経つほどにそれはどんどんと広がっていく。

私だってまた、自分でも自覚しないうちに数年前の自分とは別の判断軸で物事を選択するようになっているように思う。

それでもなお、「私とあなた」である私達は仲良くいられたらと思う。お互いがそのように願い続けることができたらと思う。