2017-7-6

花火が上がる、ゆめをみた、ような気がする。

それは電車のなかでみた広告だったかもしれない。記憶は曖昧で不確かだ。遠く、音が聞こえる。花が咲いて、遅れて音が届く。

一番に思い出される花火は、横浜にいた時にみた花火で、それはなんでもない団地の隙間から、日常の延長として眺めた花火だ。どうしてそればかり思い出すのかわからない。小高い丘のような場所で近隣の住民が集まって、黒い影となって横に並んでいた。それを私はその黒い列の一団であったはずなのに、後ろからそれを見ている。花火は、目線の高さに上がる。

だれも、なにも話さない。いつしか花火は終わって、家に帰ってテレビを付けて、それなのに内容は頭に入ってこない。確か野球がついていたと思う。

ぜんぜん、何を話していたか覚えていない、ただ音もなく花火だけが上がっている。20年近く遅れて、ようやくここまで、音が届いた。

2017-7-3

本当のことはいらないという。本当のことは大抵都合が悪く、誰かの気分を害することになるから、そんなものを表沙汰にするよりかは、本当のことの一部を切り取って貼り付けて、都合のいいことを述べろ、と。

それは、ある意味正しくて、社会のマイナス面を見ることは建設的ではないし得策ではない、そうかもしれない。そうかもしれないけれど、いつだって「イエス」と言えずにはぐらかしてしまう。

嘘つきは、私なのに、いまさら正直者を装って、それさえ嘘ではないの

2017-6-15

「あなたはなにかになりたかったのね」
そう言われたのは夢の中だったか、それとも現実だったのか、もう覚えていない。
どちらでもよかった。夢の中でも、現実の中でも。夢も現実もそこでの実態は曖昧だ。

どこであっても、私は何かではない。

川沿いを歩いた。対岸の灯りを映して揺れていた。最近、夜光虫が話題になっていたけれどきっと、今日のひかりかたも揺れ方もそんな感じだ。空は明るくて、低い雲が追いつけないほどの速さで流れていた。遠くの高層マンションを飲み込んでしまうんじゃないかと思ったけれど、だいじょうぶだった。

雲の切れ間から星がひとつだけ見えた。本当はもっと見えていたのかもしれなかったけれど私の目にはそれしか映らなかった。最初は飛行機かと思った。明るい空の中にあってあんまりにも明るくて、移動しているように見えたから。

けれども動いていたのは雲だけで、明るいのはその星がその星であったからだった。

私は、なにになりたかったのだろうか。なにに、なりたいのだろうか。

目を閉じれば声がする。

「あなたはなにかになりたかったのね」

2017/4/17

いくつかの意味のあった日付は、それは昔のことで、今となってはその意味を失って日常の中の過ぎていくひとつのいちにちに変わっていく。

そのことを淋しいとは思わないし、ある意味正常なことなのだろうと思う。そうして長い時間をかけて葬送されたそれは、今日みたいな春嵐の雨に紛れてたまに香ってくるくらいで、それでいい。

雨が降ってきた。部屋には雨音と、それと音楽。キーボードを打つ音。かの地では多分まだ桜は咲かない。

 

大人になるなんて。なるなんて。助けてくださいと誰とにもなくくちびるを動かす。誰も助けてはくれない、大人なのだから。

 

「大人なのだから、自分の道は自分でつけなさい」

「あなた自身の幸福はあなた自身で見つけなさい」

「あなたは大人なのだから、大人は楽しいということをその身をもって示しなさい」

 

あなた自身が定義した大人に、あなた自身が成りなさい。

2017-02-01

防犯シャッターなんて閉めたくなくて、夜はできるだけずっと外を見ていたい。

じっと、何も動くものはなくて、ただ虚空の一点だけを見つめている時間が好きで、数年前まではよくやっていた。京都にいるときにその時間を失って、そうしていまもそのままだ。

深呼吸。

夜を吸い込む。照らされた空気が身体に入ってくる。ひかりの線を飲み込む。

がんばらなくちゃ、とぼんやりとした頭で考える。

何のために?その答えは明確にあって、数年前の私はすでにそれを知っている。

誰にもきっと教えることはないけれど。

 

いつの日かこの日々を振り返ったその時に、懸命に生きた日々であるように、何一つ諦めず、強欲であったと誇れるように。

2017-01-19

今年の抱負はと聞かれて、そんなの立てたことないんだけどなあ、と困りつつ、まあでも、ああ、そうだなあ、と「目の前に立ちはだかるもの全部倒すこと」だと答えた。

それは、計画的なものではなく、一種衝動のようなものなのだけれど。

私が好き勝手言ってみんなを困らせるように、みんなも好き勝手言って困らせるから、だから全部倒したいと思ったの。

好き勝手言うみんなは案外嫌いじゃなくて、むしろ好意的に思っているから、だからちゃんと全部正面から受け止めて、その上で自分ができる出来る限りを何も惜しまずできたらもう少し、もう少しだけ自分の望む自分に近づけるだろうか。

それを「倒す」と表現してしまう自分の言葉の浅はかさには思い返して笑ってしまいたくなるけれど、意外と適切に自分がやりたいことを表しているようにも思う。

さあ、歩こう。

盲目の一団が、天井を仰いで

盲目の一団が、天井を仰いで、案内役の声に耳を傾ける。果物があしらわれた照明が視線の先にある。彼らが視るとはどういうことなのだろう、とぼんやりと外に目をやりながら、私は聞くともなくその説明を聞く。一つひとつ、丁寧に案内役が目に見えるものを挙げていく。盲導犬は気だるげに床に寝そべる。

案内役の声にまじり亡霊の声が、絶え間なく聞こえてくる。

「いきなり声をかけられたような気がしちゃう」と一人が言う。

「そういう展示なんですよ」と案内役が答える。

表情が、視えるんです。この少女は伏し目がちに、この男性は苦悶の表情を浮かべて、淑女は、猜疑心に溢れた目を、

 

「あなたは私に触れたから」

 

どこからか――上の方から――聞こえてきた声にふと我に返る。

「そんな感じがしませんか」と案内役は聴衆に問う、彼らは思い思いに頷く。この部屋はどういう空間なんですか、一人が聞く。ここは食堂で、とてもきらびやかな空間です。窓は半円形の空間に沿うようにはめ込まれ、部屋の真ん中にはテーブルが、窓の反対側には暖炉があります。

 

心臓音は、内製される音律だ。外部から規定されるものではない。だから内の音より外の音が大きい時、そのリズムが狂ってしまうような感覚にとらわれる。実際とらわれるのだろう。外圧による身体感覚の調節。それも長くは続かない、しばらくその空間にいればまた内のリズムと外のリズムは違うというこということに勝手に身体が気づく。その瞬間にまた私の身体は私に帰ってくる。瞬間的な自分からの異化。

 

盲目の一団はスクリーンの前で映し出された光を「視ている」。言葉を通して、あちらとこちらの境界のような、遠い海辺の風景を。

時代はいつ、どのような経緯でこの風景が構築されるに至ったのか(人為的?自然に?)、ひとつひとつ、想像で読み解く。

 

盲目の人が見る夢のことを思う。彼らの夢に色はあるのだろうか。