2018-06-08

ある夜、生けていた花が枯れた。花の名前はなんと言っただろうか。そんなことさえ忘れてしまった。紫陽花だったかもしれないし、百合だったかもしれない、もしかしたら牡丹かも。

枯れた花をどうしようかと思って、生き生きとしていた頃の花を思い出していた。それはつい先日までのこと。

これは、誰からもらったのだっけ?自分で買ったのだっけ、それとも摘んできたものだっけ。

ずっと、ずっと考えている。書きたいことはなにか。口を開くのはなんのためか。なにを伝えたくて生きているのか。そういうことを考えながらマッチを擦って、花びら一枚一枚に火をつけていく。青黒く燃えて、瞬間、消える。

ねえ、私はあなたがとても好きですとかそういう話をしたいのかもしれない。なんのために書くかは全然わからないけれど、ああ、これはつまらないだろうなと書いていて思うのだけれど、でもねえ、とても書きたいの。書きたくて仕方がないの。燃やす花をなくしてしまったとしても、その炎が私の袖につと燃え広がってどうか、永遠に燃え続けますように。

枯れた花は、そうして、花びらから、萼から、茎も、そのようにして燃やした。窓を開けて真夜中の空気を部屋に呼び込んだら、もうすっかり花の気配は消えてしまった。

執着したいと思う。何事かを叶えられるように、私が私を放棄してしまわないように。そのように永遠に、あるはずのない永遠のように、そのように在ることができるように。

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2018-5-12(名付けはいつも幸福のために)

名前を呼ばれることが苦手で、だから名前以外で呼んでもらうようにいつだって最初にお願いをする。

どうして苦手なのか、いつから苦手なのかわからない。気がつけば苦手だった。たぶん小学生の時とか、そのあたりから苦手になっていた。本当は、記憶を辿ればわかるのだと思う。でも記憶を辿ることは無意味に苦しい行為だから、それをすることはない。

それでも何人か、私のことを名前で呼んでくれる人たちがいる。大抵はとても古い友人で、年に一度、もしかしたら数年に一度しか、彼ら彼女らの口から私の名前を呼ぶのを聞くことはない。

 

心地よく響くその、遠く私を呼ぶ声に、名付けられた幸福のことを思う。

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2018-4-21

先週末くらいに灯台に行く予感がして、その予感を成就させるために灯台に行った。神奈川の端の方へ、ディ・トリップ。ここ最近、うまく呼吸ができなくなっていた。この「呼吸」はもちろん比喩のことで、実際の私は、すこぶる健やかに、すーすーすーすーと今この瞬間も必要数の呼吸を繰り返している。

 

海を見ることで変わる何かがあるとか、そういうことは何もない。ただ家と仕事の往復ではいつ見る空もつねにビルが視界に入り込んできていてそれになんだかとても疲れてしまった。また、この作り上げられた社会制度の上でしか役に立たない汎用性のない論理的な思考を放棄したかった。

リセット、ではない。厳密に今生きるこの世界にはリセットなんてない。過去は、思考は、そこに歴然とあって、積み重ねた上で、そこにまた白、ないしは空白を重ねる。

 

海に行く間、私は、何も考えていなかった。何も考えずに、本の字面と、見える景色を時折目で追っていた。そういう記憶があるだけ。

住んでいる場所から離れるごとに、その距離が伸びるほどに指数関数的に刹那的に必要とされている思考から引き剥がされるような感覚になる。2時間半で、日本の端っこに行けるのだ。その瞬間は少なくとも既存の思考は必要ない。

風が強く吹いていた。灯台にさわった。白くて、すべすべとしていた。潮風に晒されていることを思わせない潔白さだった。服がいっときも休むことなくはためいて、すっかり潮の香りが移った。

むかし、ずっと年の離れた友人が「鈍感になれ」と言っていたことを思い出した。その人はイラストレーターで、それこそ感性が必要な世界の人だったから、そう言うことが意外だった。ただ、今となってはより深くその意味が身にしみて、たぶん鈍感にならなければ守れない感性があるのだと思う。

息を吸う。思いっきり風が吹き付けて苦しい。苦しくて、笑う。耳に対して風をあてる角度を変えると、音が変わってゆく。風が、輪郭を浮かび上がらせる。髪を押さえるともうごわごわとしていた。

岬に立つとその先には、海はなくて、それは当然だけれど目に見えるものが海と空だけであることが嬉しかった。そこには社会制度も、文化も、人間が作り上げたものは何一つだってなかった。ここでは鈍感である必要がなくて、本質的に自由だった。海からも風からも離れがたくて、ずっと歩いていたら、いつの間にか陽は落ちはじめて、海に道をつくっていた。どこかの国には月が水面に反射して作る道に名前を与えていたけれど、陽が映し出す道には名前がないのだろうか、まぶしい、目を細めて、その道行きを追う。船がその道を通る。逆光で、影絵のようにくっきりと浮かぶ。

 

物語には、始まりは明確にある、その真ん中も、ある。終わりだけが、明確にない。いつの頃からか勝手にはじめられた物語のその真ん中にまた私達がいる。まだ、ずっと何十年何百年、何千年、もっとその先へ物語は続く。小さな物語を語り継ぎながら。

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2018-4-17

 

小学生と、中学生の時、私は不登校になりたかった。その手段があることは知っていたけれど、その勇気はなかった。選択肢のなかにそれを入れることができなかったし、それを提案してくれる人もいなかった。自分もまた、自分が置かれた状況を人に伝えることをしなかった。

 

その時の自分は、あるいは今の自分も変わらず、ヒーローに憧れていた。誰かのことを華麗に、時に泥臭く救って、笑って他者に手を差し伸ばす。そのような者に私はなりたかった。いまでも、なりたい。

ヒーローはきっと、不登校にならない。不登校のヒーローの物語を私は知らなかった。ヒーローはいつでも人気者で、強くて、他者から汚い言葉を浴びせかけられない、殴られもしない。

私は、ヒーローになりたかった。今も。

 

そう思っていたけれど、たぶん、この欲求はもっと低次のものであるかもしれないと思い至る。ヒーローである前に、私は、存在を許されたかった。

あなたはそこにいていいのだと、学校に通い続けたら、いつかどこかのタイミングで許されるのだとそう思い続けて、目を伏せて学校に通っていた。ついぞその瞬間は訪れなかったけれど。

 

なぜ文章を書きたいのかということをずっと考えている。そして根源はここにある。過去の自分の肯定と、過去の自分から見た、未来を生きる人たちの肯定。

あなたは存在していていい、あなたを見つけてくれるものたちはやがて訪れる。

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2018-3-27

今年はじめてコートを着ないで外に出かけた。

冬にいる間、永遠に春なんてこないと思っていた。べつに毎日がつらくて、とかそういうわけではなくて、生活から季節が遠ざかってしまって、暖かくなることがその想像がとても遠かった。

それでも、いつの間にか、季節が巡った。気がつけば桜が咲いていて、朝に川の両岸を望むと春霞の中に花びらが揺れている。

 

もともとうまくはないのに、最近は余計にうまく人と話すことができない。口を開くことがひどく面倒で、思っていることの1/100も表現ができない。何を口に出してよくて、なにを口に出してはいけないのか、その判別がめっきりつかなくなってしまったから、その選別に頭を使うことが面倒という感じだ。そして元来話したがりでないから、自分がそういう状況になったときに黙ること、話さないことを選択する。それはとても自然なことのように思う。

べつに自分のなかで咀嚼しきれていないことに対して沈黙することが正しいとも思っていないから、思ったことは口に出す方がいろいろと円滑であるんだろうとは感じているんだけれど。

例えば春が来て、それが嬉しいことや、舞った花びらが肩をかすめたこと、いけていた桃がうまく咲かなかったこと、好きな詩の一節のこと、揺れるしゃぼん玉を割って遊んだことなんか、話したってどうにもならないでしょう。

でもきっと、どうにもならないことの積み重ねで毎日が構成されている以上、どうにもならない、どうでもいいようなことを表現することで進むことも多いのかもしれない。

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2018-2-14

とおく、水平線が光って見えた。瞬いて、瞬いて、そのたびに目を細めた。砂に描いた下手な絵は波が寄せるたびに消えて、それだけのことがどうしてか、面白い。

よく海に行くようになった。山あいの町で育ってきたから、海は遠いものだったけれど、いまはこんなにも近い。ずっと向こうの工場群がまるで蜃気楼のように揺れながら海面に浮かぶ。

木の枝を手にとって、海へ放り投げる。何度か波に押されて戻ってきて、そのたびに遠くへ遠くへと投げる。別に枝に何を重ねるわけでもないけれど、手の届かないところまで行ってほしかった。しばらく海岸を歩いて、振り返ると見えなくなっていた、よかった。

 

海風が頬に心地良い、言葉の隙間を静かに埋めていく。優しい表情ができていたらいいと思う。そのように私は、願ってみる。

 

見渡す限り、まっしろな海。光に照らされて目を細めずにはいられない。海を見るたびに空に近い場所だと思う。境界線上を見る私達もまた、境界線上に立っている。

遠くに行けると信じさせてくれる海が、好きだ。

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2018-1-30

お酒なんて、一滴だって飲めやしないのにワインを買った。1度そのワインセラーの前を通り過ぎて、スーパーに行って、わざわざ道を引き返して買ったのだから、衝動買いというよりも強い意思を持って買った、のだと思う。

家に帰ってコルクを開けるのに30分くらい戸惑った。コルク抜きは幸いアーミーナイフについていたからそれを使った。ねじ込んでみてもコルクはびくともしなかったから、お手上げだった、どうすればいいかわからない、という体験を久々にした。

ネットで検索すると、瓶を横に倒すといいとあったのでそうした。それでしばらく倒したままにしてからもう一度やってみると簡単に抜けた。なんだこんなものか。

 

注ぐ、飲む。グラスいっぱいものまない内にふらふらになった。視界が歪んだ、何一つ楽しくない。

ワイン好きな人がみたら怒るだろうけれど、そのあと、ワインを沸騰させてアルコールをできるだけ飛ばした。ミルクパンに注いだ量の半分以下になっていた。

砂糖もスパイスもなにも入れなかったから葡萄の渋みだけが浮いて、いつまでも口の中に張り付いた、顔をしかめながらのんだ。

 

保険の営業のようなものを受けながら、相手の目をそういえば私は一度たりとも見なかった。もともと人の目を怖いと思いがちな私だけれど、それでも見れなかったという体験は珍しいように思う。相手の顔がまったく思い浮かばない。もしかしたら目の下にものすごいクマがあったかもしれない、頬が痩せこけていたかもしれない。それもわからない。なんだったら相手が人間でなくても、吸血鬼とか、熊とかでも多分気がつかなかった。そうすることでしか自衛ができなかった。

 

もう二度と、一人でワインを飲むこともお酒を飲むことも、きっとない。

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